所属のない時代に、誰と生きるか〜家族・会社・地域の外に関係インフラをつくる

自由になった個人と、私有化された孤独

われわれは今、社会でどんなコミュニティと関わり、毎日を生きているだろうか。

20世紀の社会は、人間関係をいくつかの制度に束ねて提供していた。家族、会社、地域という3つの主要な制度がそれである。家族は愛情だけでなく、介護、看病、保証、相続、緊急時の連絡先まで引き受けた。会社は給与だけでなく、肩書、日課、同僚、信用、しばしば結婚相手や老後の仲間まで提供した。地域は監視と同調圧力を伴う一方、冠婚葬祭、子育て、防災、日常の助け合いを担った。人はこれらの共同体を選んだというより、そこに“配属”されていたといった方が良いかもしれない。

現代社会の都市化・流動化と個人化がもたらした大きな自由は、この配属から離れられる自由であったといえよう。生まれた土地に住み続ける必要はなくなり、家業を継ぐ義務も、同じ会社に一生勤める必然も薄れた。結婚するか、子どもを持つか、どこで誰と暮らすかについても、個人化の中で「〜すべき」という共同体の義務感は次第に薄まって、選択の余地は広がっている。

だが、共同体からの解放は、関係形成の「私有化」でもあった。かつて家族、会社、地域が半ば自動的に供給していた関係を、現代人は自分で探し、選び、誘い、維持し、更新しなければならない。そこでは自由になった代わりに、人付き合いまで自己責任になったのである。

その自由の結果として、現代の大きな社会問題として「孤独」が顕在化するようになった。しかもこれは単純な人間関係の減少ではなくなっている。連絡先は多い。SNSでは数百人とつながっている。職場では毎日会話をし、オンライン会議にも参加する。それでも、自分の異変に気づく人がいない。役割を失った後にも会ってくれる人がいない。用事がなくても訪ねられる場所がない。

つまり、今日の孤独とは、個人化・流動化した人生と、固定的な関係制度との間に生じた不一致である。すなわち、転職や移住、未婚や一人暮らしなど、人生の形は自由に変えられるようになった。だが、人とのつながりは依然として「家族・会社・地域」といった共同体に強く依存したままで、これらは、長く同じ場所にとどまることを前提に設計されたままである。このズレが、人を関係の外に押し出してしまう。

一方で、近年企業のアルムナイ・ネットワークや、血縁や婚姻に縛られない新しい同居、地域と継続的に関わる「関係人口」など、所属を固定せずに人と地域をつなぎ直す試みも広がりつつある。これから必要なのは、もはや古い共同体への回帰―家族や会社に人生を再び丸ごと預けることでもない。必要なのは、一人で生きる自由を守りながら、一人だけでは生きなくて済む社会をつくることである。その核心にあるのが、「関係インフラ」の新たな創り方と考え方である。

人付き合いと関係流動性―世界共通の正解はない

人付き合いについて語るとき、私たちはしばしば、社交的であることを無条件に善とみなす。友人が多く、初対面の人にも話しかけられ、頻繁に集まりへ参加する人が「人間関係の豊かな人」とされる。しかし、それは特定の社会や時代が好む人付き合いの形式にすぎない。

人間関係のつくり方は、文化によって大きく異なる。社会心理学には「関係流動性」という概念がある。1これは、新しい相手と関係を結んだり、既存の関係から離れたりする機会が、社会のなかにどの程度あるかを示すものだ。39の国・地域を対象にした研究では、欧米や中南米では関係流動性が比較的高く、東アジアなどでは、人間関係がより固定的で、新たな関係をつくる機会が限られる傾向が示されている。2

世界39の国と地域における関係流動性の分布 (出典:注釈 3

関係流動性の高い社会では、人は自分を明確に表現し、好意や関心を言葉にし、新しい関係を積極的に獲得する必要がある。黙っていては選ばれないからである。そのため自己開示や社交性が重視され、「また会いましょう」「今度一緒にやりましょう」という明示的な働きかけが関係の入口になる。

一方、関係流動性の低い社会では、人間関係は容易には取り替えられない。同じ学校、職場、地域の人と長く付き合うため、目立つ自己主張よりも、評判を損なわないこと、相手の事情を察すること、長期的な信頼を守ることが重要になる。関係は言葉で宣言されるというより、繰り返し同じ時間を過ごすなかで確認される。

どちらが優れているわけでもない。流動性の高い社会は、新しい関係に入りやすいが、選ばれ続けるための自己演出を要求する。流動性の低い社会は、長期的な安心を与える一方、いったん関係から外れた人が再び入ることを難しくする。前者には関係の市場化という問題があり、後者には関係の固定化という問題がある。

社会の変化の中で日本が直面しているのは、この二つの様式の悪い部分が重なった状態ではないだろうか。すなわち、雇用や居住、家族の形は流動化している。転職し、移住し、一人で暮らし、オンラインで仕事をする人は増えた。ところが、人付き合いの作法には、固定的な社会の名残が残っている。自分から誘うのは相手の迷惑かもしれない。困っていると言えば負担をかける。親しくない人に助けを求めるべきではない。いったん離れた集団に戻るのは気まずい。生活は流動化したのに、関係をつくる作法だけが流動化していないのである。

その特徴は、高齢者の人付き合いにも表れている。内閣府が日本、米国、ドイツ、スウェーデンの高齢者を比較した調査では、日常の小さな困り事が生じた際に「友人を頼れる」と答えた割合は、米国31.1%、ドイツ61.0%に対し、日本はわずか13.7%であった。「近所の人を頼れる」とした割合も、米国25.3%、ドイツ52.0%に対し、日本はわずか12.9%で下回った。4

これは、日本人に友人がいないことを意味するものではない。むしろ、友人や近隣関係を「実際に頼ってよい関係」と見なす範囲が狭く、生活上の相互扶助が家族へ集中している可能性を示している。

この傾向は、若い世代の友人関係にも表れている。三宅香帆『「夫婦」不在社会』5では、共同体の影響力が弱まり、人間関係が個人化した結果、友情が「常に解消されるリスクを孕んだもの」になっているという社会学者・久保田裕之の指摘が紹介されている。地縁や学校、職場などの拘束力が弱まり、友人関係が選択・離脱しやすくなれば、悩みを打ち明けることも関係を壊すリスクになりうる。

実際、NHK放送文化研究所の調査6では、高校生が悩みごとや心配ごとを相談する主な相手として「友だち」を挙げた割合は42.6%で、1982年の74.2%から大きく低下した。一方、「お母さん」は1982年の11.0%から30.2%へ上昇している。地域の居場所や部活動、近隣とのつながりが細るなか、相談や支援の役割が家族、とりわけ母親へ集中している。家族がセーフティネットとして機能しない場合、子どもが孤立する危険はより大きくなる。

ライフシフトが生む「関係の空白」

長寿化によって変わるのは、老後の長さだけではない。人生の途中で、所属や役割が変わる回数が増える。教育を終え、就職し、結婚し、退職するという単線的な人生は、すでに標準ではなくなりつつある。転職、独立、複業、学び直し、移住、離婚、再婚、介護、病気、第二の職業などが、人生のなかに繰り返し現れる。OECD諸国では高年齢層の就業率が長期的に上昇し、働く期間そのものも伸びている。

だが、人の関係は、履歴書ほど簡単には更新されない。転職によって失うものは、給与や肩書だけではない。毎朝名前を呼ばれる場所、雑談を交わす相手、自分の仕事ぶりを知っている人を同時に失うことでもある。退職とは所得の変化である前に、日常的に自分の存在を確認してくれる集団から離れる出来事である。

離婚すれば、配偶者との関係だけでなく、夫婦単位で付き合っていた友人、親族、近隣との関係まで変わることがある。介護が始まれば、本人の移動時間や余暇が失われ、弱い関係から順に途切れていく可能性がある。子育てが終われば、保護者として築いた関係が薄れ、自分自身の関心で結ばれた人がほとんど残っていないことに気づく場合もある。ライフシフトの見落とされがちなコストは、こうした「関係の空白」である。内閣府の2025年調査では、程度の差はあれ、約4割の人が孤独感を感じることがあると答えた。7

孤独は高齢者だけの問題ではない。むしろ、仕事、育児、住宅ローン、介護など、多数の役割を背負っている中年期に深刻化することがある。外から見れば多くの人に囲まれていても、そこでの関係がすべて「社員」「上司」「親」「配偶者」といった役割に結びついていれば、本人そのものを支える関係は乏しい。

この時代の人付き合いで重要になるのは、家族(夫婦や親)・会社・地域といった社会的な役割とは異なるプライベートな友人関係を持つことだ。会社員でなくなっても会える相手。子どもの親でなくても話せる相手。業界の肩書が変わっても関心を共有できる相手。現在の成功や失敗とは無関係に、過去と変化の過程を知っている相手である。

関係資産という考え方は、ここで意味を持つ。ただし、関係資産は名刺の枚数でも、SNSのフォロワー数でもない。重要なのは、関係の「機能」が一か所に集中していないことである。深い感情を話せる人、日常的な手助けを頼める人、新しい世界へつないでくれる人、異なる世代の視点を与える人、目的なく食事をできる人。それぞれが別の相手であってよい。

なぜなら、金融資産と同じように、関係にも集中リスクがあるからだ。配偶者一人に、恋愛、友情、相談、娯楽、介護、経済的協力のすべてを期待すれば、関係は過重になる。会社だけを帰属先にすれば、退職と同時に生活全体が空洞化する。

資産形成については、若い頃から備えるべきだと言われる。健康についても、病気になる前の日常が重要だと理解されている。それにもかかわらず、人間関係だけは、偶然や性格の問題として扱われてきた。しかし、関係にも形成期間がある。信頼は、必要になった日に即座には調達できない。退職してから友人を探し、介護が始まってから地域との関係をつくり、病気になってから助けを求められる相手を探すのでは遅い可能性がある。

「ライフシフト」の時代8には、危機が訪れてから人間関係を探すのでは遅い。生活が安定している時期にこそ、仕事や家庭とは異なる場所へ出ていく必要があると言える。ただし関係への投資とは、異業種交流会で有力者を探すことではない。自分の現在の役割がなくなった後にも残る時間を、誰かと共有しておくことである。

もっとも、関係を資産と呼ぶことにもやや慎重でなければならない。人は所有物ではなく、友人は将来役立つかどうかで選別されるべきではないからだ。関係資産は個人が独占する財産ではなく、人と人との「あいだ」に共同で蓄積されるものである。その元本は、相手と共有した時間、守られた約束、適切な距離、失敗したときにも切られなかった経験である。

その蓄積を長期的に増やすのは、見返りを前提にせず先に差し出すギバー(与える人)であり、与える行為そのものが関係の残高を静かに積み上げていく。知り合った人にいきなり一方的な依頼をする人もいるが、こうしたテイカー(人間関係において、与えることよりも受け取る(奪う)ことを優先し、自己利益を最優先に行動する人)は、関係資産を必要なときだけ引き出そうとしても、残高は存在しない。9

一人で暮らす社会を、家族前提で運営しない

日本では2050年に、単独世帯が全世帯の44.3%を占め、平均世帯人員は1.92人になると推計されている。65歳以上の男性の独居率は、2020年の16.4%から26.1%へ上昇する。高齢男性の単独世帯では、未婚者の割合が約6割に達する見通しである。10

これは一時的な現象ではない。一人で暮らすことが、社会の中心的な生活形態になるということである。ただし自分の時間や空間を持つことは、現代が獲得した重要な自由でもある。結婚していても孤独な人はいるし、一人で暮らしながら豊かな友人関係を持つ人もいる。WHOは、孤独を「望んでいるつながりと実際のつながりとの隔たりから生じる苦痛」とし、社会的孤立を「十分なつながりが客観的に欠けている状態」と区別している。11

さらに言えば、一人でいることには第三の状態がある。自ら選び取った孤独、すなわち静かな時間である。これは欠乏ではなく、思考、創造、回復のための余白になり得る。問題は一人暮らしそのものではない。家族のいない人が増えているにもかかわらず、社会の制度が依然として「家族がいるはずだ」という前提で設計されていることである。

病院では緊急連絡先を求められ、住宅では保証人を求められる。病気になれば通院への同行、入院時の荷物、退院後の食事が必要になる。認知機能が衰えれば金銭管理や契約の支援が必要になり、亡くなった後には住居の整理や葬送を担う人が要る。これらは愛情だけの問題ではない。権限、責任、時間、実務の問題である。友人が多くても、医療や財産に関する意思決定を託す仕組みがなければ、制度上は「身寄りがない」と扱われる。ここに、感情的な孤独とは別の「制度的な孤立」が生じる。

内閣府が2026年に公表した推計では、死後8日以上を経て発見された「孤立死」の目安は、2025年の一年間で22,222人であり、その大半を男性が占めた。これは孤独の全体像を示す数字ではなく、定義にも限界がある。しかし、誰も異変を察知できず、制度にも生活にも連絡の回路がなかった状態の、最も厳しい終点を示している。12

だからといって、家族に代わる「疑似家族」をつくればよいわけではない。コミュニティを家族のようなものにしようとすると、親密さが義務になりやすい。誰が病院へ付き添うのか、誰が高齢者の世話をするのか、誰が運営の雑務を引き受けるのかが曖昧なまま、善意のある少数者へ負担が集中する。内部事情への過剰な介入や、退出しにくい同調圧力も生まれる。

必要なのは、家族の再現ではなく、家族が一括して担ってきた機能の分散である。感情的な支えは友人が担い、日常の安否確認は近隣やデジタルサービスが担う。医療や財産に関する権限は契約や指定代理人によって整え、身体介護は専門職が担う。食事や移動は地域の相互扶助が補い、誕生日や死別といった人生の節目は文化的な共同体が共に過ごす。

一人の家族にすべてを負わせるのではなく、複数の人、制度、専門サービスが、小さな責任を分け合うのである。これからのコミュニティは、家族の代用品ではない。家族がいなくても、人が社会から脱落しないための分散型インフラであるべきだ

家族に代わる同居コミュニティの取り組み

一人暮らし生活が主流となった今日、たとえば従来型の地縁・血縁・仕事縁とは異なる、新しいコミュニティのあり方を探求している取組みが存在する。その一つが家族以外の人たちが住居を共にするシェアハウスだ。

一般的なシェアハウスは、家賃や設備を分け合う合理性から出発する。だが、同じ屋根の下に住むだけでは共同体にならない。むしろ、キッチンの使い方、清掃、騒音、来客、ケアをめぐる摩擦が、曖昧な善意の限界を露呈する。共有すべきなのは空間だけでなく、空間をどう使うかを決める権限と責任である。

東京・日暮里の「コレクティブハウスかんかん森」は、この違いを二十年以上にわたって示してきた。各世帯は独立した住戸を持ちながら、コモンダイニングや共同の食事、菜園などを共有し、居住者組合が暮らしの運営に関与する。重要なのは、何もかも共同にすることではない。「ひとりの自由」と「ともに暮らす自由」を、私的空間と共用空間の双方で守る設計にある。13

コレクティブハウスかんかん森の共同生活:同社サイトより

また、渋谷を拠点とするCiftが掲げてきた「拡張家族」の試みも、血縁や制度を越えて暮らしを支え合う可能性を示している。同時に、価値観への共感が参加資格になりすぎれば、似た文化を持つ人だけが残る難しさもある。未来の共同体に必要なのは、世界観の完全な一致ではなく、異なる人と暮らすための実践上の約束である。14

拡張家族 CIft:同社ウェブサイトより

シェアハウスに共有ラウンジを置くだけでは足りない。キッチンの使い方、清掃、騒音、来客、ケアをめぐる摩擦は必ず起きる。空間をどう使うかを決める権限と責任、問題が起きたときの調整、参加しない自由まで設計されて、初めて「関係面積」は機能する。

空き家、社員寮、学校跡地、商店街の空き区画は、多世代型の小規模拠点へ転換できる。改修費だけでなく、入居前のルールづくり、居住者の調整、ホストの人件費までを事業の中心に置く。不動産の価値も、立地や床面積だけでなく、無理なく顔見知りが生まれるか、離れた人が戻れるか、ケアの負担を分散できるかという「関係価値」で評価されるようになるだろう。

関係資産は、数ではなく「関係の種類」が重要

人間関係について考えるとき、私たちはつい、「何人の友人がいるか」「頻繁に会う相手がいるか」を基準にしてしまう。しかし、人生の変化に強い人間関係とは、単に知り合いが多い状態ではない。大切なのは、異なる理由でつながり、異なる距離で付き合い、異なる場面で支え合える関係を持っていることである。15

人付き合いを考える際には、性格の違いにも注意が必要である。大人数の集まりから活力を得る人もいれば、一対一の会話や共同作業の方が心地よい人もいる。頻繁な連絡を愛情と感じる人もいれば、長く連絡がなくても関係が変わらないことに安心する人もいる。したがって、目指すべきは、全員を社交的にする社会ではない。異なる「関係の密度」を選べる社会である。

にぎやかな食卓もあれば、静かに本を読む場所もある。毎週集まる仲間もいれば、年に一度会う友人もいる。深く悩みを話す関係だけでなく、名前を知り、挨拶を交わし、しばらく姿を見なければ気にかける程度の関係もある。人間関係の豊かさとは、決して親密さの最大化ではなく、こうした異なる密度の関係の形式を複数持てることであろう。ここでは、個人を主体とした多様な関係づくり、コミュニティづくりのヒントと、その今日的意義を考えてみよう。

「好きなこと」でつながる関係

まず持ちたいのは、仕事や家族の役割とは関係なく、自分の関心から始まる関係である。読書、映画、音楽、写真、料理、ワイン、釣り、登山、庭づくり、スポーツ、歴史、アート。こうした趣味のよいところは、人と人が最初から向かい合わなくてもよいことにある。自分の経歴を魅力的に語ったり、家庭の事情を詳しく説明したりしなくても、「この本は面白かった」「この写真を撮りに行きたい」「この料理を一緒につくろう」という共通の対象が、会話の入口になる。

特に、会社での会話に慣れてきた人ほど、仕事以外の関係をつくることに戸惑うことがある。名刺も肩書もない場所では、何を話せばよいのか分からないからである。その点、趣味のネットワークでは、立派な自己紹介よりも、同じ対象に関心を持っていることの方が重要になる。

ただし、単発のイベントへ次々と参加するだけでは、接触は増えても関係は残りにくい。大切なのは、月に一度でも同じ場所へ行き、同じ人と少しずつ異なる会話を重ねることである。読書会、写真サークル、料理教室、まち歩き、合唱団など、反復のある活動は、無理に友人をつくろうとしなくても、時間をかけて顔見知りを仲間へ変えていく。

「何かを良くする」ためにつながる関係

趣味とは別に、共通の目的や社会的な活動を通じて生まれる関係もある。地域の祭を続ける。海岸をきれいにする。子どもの居場所をつくる。文化財を守る。地域の歴史を記録する。空き家を活用する。困っている人へ食事を届ける。伝統的な産業を支援する。このような活動では、「仲良くなること」自体が目的ではない。共通の目的、目の前にある課題へ一緒に取り組むうちに、結果として信頼が育っていく。

人は、会話だけで親しくなるとは限らない。社会的活動を行うコミュニティや非営利法人を運営する、イベントを開催する、参加者を迎える、料理をつくる、会計を担う。そうした小さな共同作業のなかで、その人が約束を守るか、困ったときに助けてくれるか、意見が違ったときにどう振る舞うかが見えてくる。関係の厚みは、楽しい会話よりも、むしろ少し面倒な仕事を一緒にした経験から生まれることがある。

退職後の人にとっても、社会的活動は重要である。会社を離れると、それまでの経験を生かす場を失い、「もう自分は必要とされていない」と感じることがある。しかし、地域メディアの編集、子どもの学習支援、祭の運営、NPOの広報などでは、仕事で培った能力を別の文脈で使うことができる。これは現職の人でも、プロボノ(仕事で培った専門スキルや経験を活かしてNPOや地域団体を無償で支援する、社会貢献活動)などの形で自分の専門性や経験を活かした、新たな関係づくりの資産を得ることにつながる。

ここで大切なのは、(過去の)肩書を再現することではない。一人の参加者として受付に立つ。元専門家として正解を与えるのではなく、違うコミュニティや若い世代と一緒に試行錯誤する。そうすることで、会社での上下関係とは異なる、対等な関係が始まる。

同世代だから話せること、同世代だけでは得られないこと

近い年代や同じライフステージの人との関係には、独特の安心がある。退職、親の介護、自身の健康、子どもの独立、夫婦関係、老後のお金。こうした問題は、同じ時期を生きている人だからこそ、長い説明をしなくても伝わることがある。若い頃の文化や社会状況を共有しているため、「あの頃はこうだった」という記憶も通じやすい。同世代の友人は、自分の人生が特殊な失敗ではなく、世代に共通する変化の一部なのだと気づかせてくれる。

しかし、同世代の関係だけに依存することには弱点もある。年齢が近ければ、退職、病気、介護、移動の困難、配偶者との死別なども、同じ時期に重なりやすい。毎年集まっていた友人グループが、誰かの病気をきっかけに途絶え、その後は全員が再開を言い出せないままになることもある。同世代の集まりは安心できる一方、集団全体が同時に年を重ね、活動する力を失っていく。

また、会社の元同僚が集まっても、話題が過去の仕事や昔の上司の話だけに偏れば、関係は「かつて同じ会社にいた人」のままである。子育て期の母親コミュニティでも、子どもの学校や受験の話がなくなった途端に、何を話せばよいか分からなくなることがある。

だからこそ、役割を通じて出会った相手との関係を、個人同士の関係へ移していく必要がある。「子ども抜きでも会いたいか」「会社の話をしなくても一緒に過ごしたいか」を考えてみる。すべての関係を残す必要はない。そのなかから、本や旅行、料理、これからやりたいことなど、自分たち自身の関心について話せる相手を見つけるのである。同世代の関係は、人生を支える重要な土台である。ただし、それだけで関係の世界を閉じないことが大切だ。

異世代との関係は、人生の時間を広げる

異世代の関係は、異なる時間感覚を持つ人同士が、対等な参加者として何かを行う関係である。若い世代と話すことで、新しい技術や仕事観、結婚や家族に対する異なる価値観を知ることができる。年長者との関係からは、一時的な流行に左右されない経験や、過去の出来事が現在へどうつながっているかを学べる。自分と近い年代の人だけで過ごしていると、現在の常識が社会全体の常識だと思いやすい。異世代の関係は、その思い込みをほどいてくれる。

ただし、「若者に経験を教える」「高齢者を助ける」という一方向の関係では長続きしない。若い人をデジタル担当や力仕事の要員として扱い、高齢者を支援されるだけの存在として扱えば、表面的な交流に終わる。

例えば、地域の歴史を記録するプロジェクトなら、年長者は土地の記憶や人とのつながりを提供し、若い世代は映像やウェブでの発信方法を提案できる。共同キッチンでは、長年料理をしてきた人と、新しい食文化を知る若者が対等にメニューを考えられる。アートや音楽、祭、農園、地域メディアなど、共通の成果物がある活動では、年齢差が関係の障害ではなく、資源になる。

異世代との関係を持つことは、自分が若返ることでも、若い価値観に合わせることでもない。自分の人生が、同世代だけで閉じた時間ではなく、過去と未来の間に位置していることを実感することである。

自分とは違う世界を見せてくれる関係

会社や業界のなかで長く働いていると、人間関係だけでなく、ものの見方まで同じ世界に集中しやすい。使う言葉、評価される能力、成功の基準、休日の過ごし方まで似てくる。その環境を離れたとき、知り合いの多さとは裏腹に、自分が一つの世界しか知らなかったことに気づく場合がある。

そこで必要になるのが、異業種、異文化、異地域の人との関係である。都市で働いてきた人が、農業や漁業に携わる人と出会う。企業人が、アーティストや研究者、職人、NPOの運営者と話す。日本で育った人が、外国にルーツを持つ人と生活や家族について語る。長く一つの地域に住んできた人が、移住者の目を通して町を見る。

このような関係は、必ずしも親友になる必要はない。年に数回話すだけでも、「その生き方もあり得る」と思える相手がいることは大きい。異なる世界を生きる人は、直接助けてくれなくても、自分が行き詰まったときに、別の選択肢があることを思い出させてくれる。

ただし、名刺交換を目的とする交流会では、関係は仕事上の有用性へ回収されやすい。「何をしている人か」ではなく、「何に関心を持っている人か」が分かる場の方がよい。食、文化、地域、環境、歴史など、共通の問いを持つ少人数の場では、職業を越えた関係が生まれやすい。

文化は、この点で大きな可能性を持つ。図書館や美術館、劇場、祭、地域の食文化は、作品を鑑賞するだけの場所ではなく、異なる世代や背景の人が同じ対象を間に置ける装置である。文化活動を単発の集客イベントから、繰り返し参加できる「関係の公共インフラ」へ変えられれば、社会的なつながりは広がる。文化は外へ出られる、魅力的な口実になれる。

日常の孤立を防ぐのは、親友より「顔見知り」かもしれない

関係資産というと、深い悩みを話せる親友ばかりを想像しがちである。しかし、毎日の生活を支えているのは、もっと薄く、日常的な関係かもしれない。犬の散歩で会う人。いつも立ち寄る店の店主。同じ時間に図書館へ来る人。お店の常連。近所の薬局や美容院で声をかけてくれる人。名前は知っているが、家族構成までは知らない。その程度の関係であっても、自分がしばらく姿を見せなければ、「最近来ないね」と気づいてくれる可能性がある。

このような関係は、友人と呼べるかどうか曖昧である。しかし、生活の安全という点では大きな意味を持つ。遠方の親友より、近所の顔見知りの方が、転倒や体調不良など日常の変化に早く気づくことがあるからだ。

日常のネットワークをつくるために、社交的になる必要はない。必要なのは、同じ場所へ、ある程度決まった時間に、繰り返し通うことである。一度の長い会話より、短い挨拶を何度も交わす方が関係をつくる。用事がなくても立ち寄れる店や施設を生活圏に持つことは、単なる消費ではなく、地域のなかに自分の存在を置いておくことでもある。

都市においても、こうした緩やかな日常の地域の関係を育める環境づくりも大事だ。よい地域関係とは、互いの生活へ深く踏み込むことではない。知らない人でもなく、家族のように干渉する相手でもない。その中間にある、「少し気にかけ合う関係」が重要なのである。

学び直しで、初心者でいられる関係

学び直しの場も、重要な関係資産になる。シニア期になると、周囲から過去の役割で見られやすくなる。「元部長」「先生」「〜さんのお母さん」「長年の専門家」として扱われ、本人もその期待に応え続ける。しかし、新しいことを学ぶ場では、その肩書を一度下ろすことができる。

語学、歴史、哲学、工芸、デジタル技術、AI、資格、地域事業。何を学ぶかは重要だが、それ以上に意味があるのは、分からないことを分からないと言える関係を持つことである。初心者として質問し、失敗し、他の人に教えてもらう。その経験は、過去の実績によって固定されていた自己像を柔らかくする。

教える側でいることは、自尊心を支えてくれる。しかし、教える側に固定されると、新しい関係は生まれにくい。自分より年下の人から教わる。異なる経験を持つ人と一緒に試す。うまくできない姿を見せる。こうした時間のなかで、肩書によらない関係が育っていく。学びのネットワークは、知識を増やすためだけのものではない。人生の後半にも、自分はまだ変化できるという感覚を取り戻す場所なのである。

親しさだけでは、生活の危機を支えられない

最後に必要なのは、病気、介護、住居、移動、金銭、法律など、生活上の問題へ対応する関係だ。友人が多くても、入院したときに誰へ連絡するか、ペットを誰に預けるか、退院後の買い物を誰に頼むかが決まっていなければ、実際の危機には対応できない。一方で、一人の配偶者や子ども、親友へすべてを任せれば、その人の負担が過大になる。

感情的に話を聞くことと、医療上の判断をすることは違う。通院に付き添うことと、財産管理を担うことも違う。友人、近隣住民、医療職、介護職、法律職、行政や民間サービスが、それぞれに小さな役割を分担する必要がある。

例えば、不安なときに電話をする相手と、緊急時に家へ入れる相手は別でよい。通院には近所の人や移動サービスを頼り、介護は専門職へ相談する。契約や財産については司法書士や弁護士へつなぎ、日常の異変は行きつけの店や近隣の人が気づく。すべてを引き受ける一人を探すのではなく、複数の人と制度で支えるのである。

家族はこれからも重要であり続ける。会社も地域も消えない。ただし、それらは人生のすべてを収容する巨大な器ではなく、複数ある関係の結節点となる。今日の社会は、誰もが結婚し、子どもを持ち、同じ集団に居続ける社会ではない。結婚しなくても幸せに生きられ、会社を離れても名前で呼ばれ、一人で過ごしながら必要なときには関係へ戻れる社会である。

人間関係の豊かさは、いつも誰かと一緒にいることではない。一人で過ごす自由を持ちながら、必要なときには異なる関係へ戻れることである。趣味を楽しむ仲間、目的を共にする仲間、同世代の友人、異世代の知人、異なる世界を見せてくれる人、日常の顔見知り、学びを共にする仲間、生活上の問題を相談できる人。その組み合わせが、自分の人生を支える「関係資産」になるのである。

注釈:

  1. 関係流動性(relational mobility)とは、新しい相手を選んで関係を形成したり、既存の関係から離れたりできる機会が、社会環境にどの程度存在するかを示す社会心理学上の概念。 ↩︎
  2. Robert Thomson et al., “Relational Mobility Predicts Social Behaviors in 39 Countries and Is Tied to Historical Farming and Threat,” Proceedings of the National Academy of Sciences ↩︎
  3. Thomson, R. et al. (2018) Proc Natl Acad Sci, 115, 7521–7526. ↩︎
  4. 内閣府「令和7年度高齢社会対策総合調査(高齢者の生活と意識に関する国際比較調査)」(2025年度実施、2026年公表) ↩︎
  5. https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000425632 ↩︎
  6. 「中学生・高校生の生活と意識調査2022」 ↩︎
  7. 内閣府「人々のつながりに関する基礎調査(令和7年)」 ↩︎
  8. ライフシフトという言葉は『LIFE SHIFT―100年時代の人生戦略』東洋経済新報社、2016年によって広く知られるようになった。 ↩︎
  9. Adam Grant, Give and Take: A Revolutionary Approach to Success(Viking, 2013)は、対人行動を、受け取ることを優先する「テイカー」、与えることを優先する「ギバー」、受け取った分だけ返そうとする「マッチャー」に整理した。 ↩︎
  10. 国立社会保障・人口問題研究所「日本の世帯数の将来推計(全国推計)―令和6(2024)年推計―」:2020年国勢調査を基準にした推計では、2050年の単独世帯割合は44.3%、平均世帯人員は1.92人となる。 ↩︎
  11. WHOは、孤独を「本人が望む社会的つながりと、実際に得られているつながりとの隔たりから生じる苦痛を伴う主観的感情」、社会的孤立を「社会的役割、関係、交流などが客観的に乏しい状態」と区別している。 ↩︎
  12. 内閣府「令和7年孤立死者数の推計について」(2026年4月14日公表)。2025年中に自宅で死亡し、死後8日以上を経て発見された人を「孤立死」の目安として推計した人数は22,222人であった。 ↩︎
  13. 「コレクティブハウスかんかん森」は、東京都荒川区日暮里に2003年6月に開設された、日本初の本格的な多世代型コレクティブハウスとされる。 ↩︎
  14. Ciftは、2017年に渋谷キャスト13階の19住戸を拠点として、当初38人のクリエイターによって始まった共同生活プロジェクトである。血縁や婚姻に限定されず、生活、仕事、子育て、知識、資源などを分かち合う「拡張家族」を掲げた。 ↩︎
  15. Hanne K. Collins et al., “Relational Diversity in Social Portfolios Predicts Well-Being,” では、家族、友人、同僚、知人、見知らぬ人など、日常的に接する関係カテゴリーの「豊富さ」と「偏りの少なさ」を関係多様性として測定した。5万人を超えるデータの分析では、関係多様性が、交流量の多さや活動の多様性とは別に、主観的幸福感と関連していた。これは「知り合いの総数」だけでなく、異なる機能や距離を持つ関係の組み合わせが重要だという本文の議論と整合する ↩︎

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